2014年07月01日

盲人のすゝめ


「今日から僕は、盲人だ!」


前回に引き続き、ミッシェル・オスロ監督作品『アズールとアスマール』から感じたことを書いてみたいと思います。
冒頭のセリフは、主人公アズールが、憧れていたアラビア世界の醜さに絶望し、不吉とされる自身の青い目を隠すために盲人のふりを始める場面で宣言されるもの。
しかしアズールは盲人となることによって逆に感性が研ぎ澄まされ、「見た目」に惑わされることなく魔法の鍵を発見することができます。
これはとても象徴的な演出ですね。
僕にはとてもよくわかります。
そもそもこのビデオを借りたきっかけは、息子たいかんが体調不良で学校を欠席したことでした。
こういう時、息子は家でビデオを見ながら過ごすのですが、そのすぐ横で僕は仕事をしたり家事をしたりしています。
だから、映像はほとんど見ないのですが、音声だけは耳に入ってきます。
息子は気に行った映画があると、それを毎日何回も何回も繰り返して観るので、僕はセリフだけで頭の中に物語を再構築していくことになります。

これが実にいい訓練になるわけです。

映画「アズールとアスマール」は、そもそも理解できない異国の言語であるアラビア語を、映画の世界観の柱に持ってきて、あえて字幕を付けず分からないままにしてあります。
だからこの映画は音声だけでも作品として成立していて、映像を見なければまるで良質なラジオドラマのようです。
むしろ僕はこの映画の正しい楽しみ方を偶然実践していたのかもしれません。

さて、人が受け取る情報の8割は目から入ってくると言われています。
そして、視覚は人を騙します。
みなさんも人生において見た目で騙されたことは多々あるでしょう。
よく出来た映像作品というのは、それをうまく利用して作られています。
例えば、ディズニーのピーターパン。
主役はピーターパンとされていますが、そうではありません。
音声だけでストーリーを追ってみると、この物語はウェンディの物語となっています。
ピーターパンは、あくまで脇役。
少女から大人になるちょうど境目で戸惑うウェンディの物語です。
体は大人の女性のものになりつつあるけど、精神的には幼さが残っている思春期にある彼女。
自分でもコントロールできない「わけのわからなさ」に困惑し、それを親兄弟や周囲に理解されずに疎外感を味わっています。
そこに現れるのは、これもまた彼女にとってプラスなのかマイナスなのか「わけのわからない」存在であるピーターパン。
ウェンディの妄想が突っ走り、ピーターパンはそれを気にもかけず善悪を越えた無邪気さで突っ走ります。
他の登場人物は、そんな二人を理解しようとすら思わず、嫉妬や利己的行動に終始しています。
結局二人は最後まで噛み合うことなく、映画は終わってしまいます。
何だかよくわからないけどウェンディはスッキリしていて、大人になることを受け入れて、おしまい。
映像では夢があふれるファンタジーのように描かれていますが、決してそうではありません。
かなりリアルな「大人への第一歩の日」のドキュメンタリーなのです。

初めての時って、そんなもんでしたよね?


 




posted by 岡昌之 at 14:21| Comment(0) | エンタメ・アート・サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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